西穂高口駅
「山の日」は孫と西穂高岳を楽しむ

新穂高ロープウェイのしらかば平駅からロープウェイに乗り西穂高口駅へ行きました。

西穂高口駅の展望台に着き記念撮影。

西穂高口駅の展望台から笠ヶ岳方面を望む。

西穂高口駅の展望台から 槍ヶ岳方面を望む。

西穂高口駅の展望台から 西穂高岳方面を望む。

西穂高口駅の展望台から 焼岳方面を望む。

千石園地にある播隆上人の像の横に孫が立つ。
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孫に山の素晴らしさや恩恵を話して聞かせましたが、「馬の耳に念仏」でした。(笑)
「山の日」は孫と西穂高岳を楽しむ
新穂高ロープウェイのしらかば平駅からロープウェイに乗り西穂高口駅へ行きました。
西穂高口駅の展望台に着き記念撮影。
西穂高口駅の展望台から笠ヶ岳方面を望む。
西穂高口駅の展望台から 槍ヶ岳方面を望む。
西穂高口駅の展望台から 西穂高岳方面を望む。
西穂高口駅の展望台から 焼岳方面を望む。
千石園地にある播隆上人の像の横に孫が立つ。
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孫に山の素晴らしさや恩恵を話して聞かせましたが、「馬の耳に念仏」でした。(笑)
2018年3月18日石川県輪島市深見町の猿山岬灯台へ山の神と雪割草を見に行きました。
猿山岬灯台と山の神。
キクザキイチゲの白い花。
紫色のキクザキイチゲの花は貴重です。
白い雪割草の群生。
ちょっとピンク色の雪割草の花。
白い色の雪割草。
この色の雪割草が一番鮮やかでした。
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今日は、春の訪れを感じたくて山の神と石川県輪島市深見町の猿山岬灯台から猿山までを散策して来ました。
天気は良くて海風が強く少し寒かったが咲き始めの雪割草が春の訪れを感じさせてくれた。
咲き始めの雪割草やキクザキイチゲの花を観察しオイラも山の神もご機嫌でした。
雪割草の花が見頃になるのには1週間くらい早かったようです。
2017年8月27日長野県松本市の上高地へ小母さんと山の神を従え散歩に行ってきました。
最初の見どころは河童橋から望む穂高連峰。
今日は天気が良く最高の散歩になりそうです。
明神館の前で小休止。
徳沢のキャンプ場は賑わっていました。
横尾山荘に到着し、横尾大橋で記念撮影。
たも婆さんと山の神。
新村橋まで戻り揺れる橋の上で記念撮影。
この立派な橋は明神橋。
幻想的な明神池。
苦手の木道をよちよちと歩く山の神とたも婆さん。
岳沢登山口付近の光景。
長い散歩コースを歩き終えて河童橋まで戻って来ました。
一日ご苦労さんでした。
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詳細はヤマレコに書き込みました。
城山公園の号砲平に咲くアザミの花。
城山公園の如意ヶ丘から望む高山の街。
宮川に架かる赤い中橋が印象的でした。
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暑さに負けないように過ごすのはたっぷりと汗を掻くのが一番です。
今日も城山公園を歩きたっぷりと汗を掻いた後はさわやかに一日過ごせました。
朝起きて外を見ると☂が降っていたので山登りを諦める。
こんな天気図では飛騨地方の天気は☂か☁で☀は期待できず城山公園 へ散歩に行きました。
城山公園の本丸付近の光景。
本丸の広場にある東屋。
城山公園の水場。
水場にカエルの置物があったのでぼちぼち家へ帰ろうか。
帰り道のある所で見かけたササユリの花は綺麗でした。
ササユリ(笹百合)の花言葉は「上品」「希少」「清浄」で7月15日の誕生花です。
今日は朝起きたら雨が降っていたので山登りを中止して自宅待機していたら、午前8時頃に雨があがり久しぶりに市内を散策しました。
城山公園の二の丸広場植え込み。
二の丸広場には良く手入れされたツツジの花が綺麗に咲いていた。
市内を散策している途中で綺麗な百合の花を発見。
黄色い百合の花の花言葉は「陽気・偽り」だそうです。
ピンクの百合の花言葉は「虚栄心」だそうです。
オレンジの百合の花言葉は「華麗」だそうです。
百合は歩きながら見るのが一番美しいという説と百合は美しい女性が歩く姿のようだと言う説があるそうです。
高山の町で綺麗な花々を眺めながら散策し一日を過ごしました。
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通称 松泰寺(しょうたいじ)
住所 岐阜県高山市西之一色町1004番地
主祭神
徳川家康(とくがわいえやす)
摂末社祭神
大山咋神(おおやまぐいのかみ) |
応神天皇(おうじんてんのう) |
家都御子神(けつみこのかみ) |
速玉男神(はやたまおのかみ) |
熊野久須美神(くまのくすみのかみ) |
菊理媛命(くくりひめのみこと) |
伊邪那岐命(いざなぎのみこと) |
伊邪那美命(いざなみのみこと) |
東照宮の第一番目の鳥居手前の広場から撮影。
雪が無ければこの橋を渡って本殿へ向かいます。
左側にある朱塗りの祠。
東照宮の本殿。
第一の鳥居から本殿まで除雪がされてなく本殿に到着するまでにひと汗掻きました。
由緒由来
東照神君徳川家康公没後三年の元和五年(1619)、時の高山藩主金森家三代重頼(幼少時駿府にて小姓として最晩年の家康公に仕えた)、高山城内に東照権現社を勧請。
十年目の寛永五年、城に西面する西之一色鴻巣の杜尾崎に遷座したのが飛騨東照宮の創始である。
金森藩六代頼ときの延宝八年(1680)社殿を改修、清鏡寺跡に東耀山松泰寺を建立別当寺とした。
元禄五年(1692)金森藩は羽州上ノ山に転封、高山は所謂天領となった。
同藩はその後濃州郡上八幡に国替えとなったが、その間東照社を鎮守として護持、高山の社地は約七十年に亘って御宮跡と呼ばれ、松泰寺のみ寺院として栄えた。
その後金森藩は宝暦騒動によりお家断絶、東照社も故地高山へ帰ったが安永、天明と飢饉が続き、祭祀は絶え荒廃。
幕府直轄領となって百余年、化政期に入って当時別当を兼帯していた櫻山長久寺良賢法印、東照社の再興を発願、その奔走と江戸で旗本として復活していた金森家後裔重任等の尽力によって再建の運びとなり、時の郡代芝与市右衛門正盛の采配により、高山の有力町人(内山忠右衛門ら)の財政援助もあって、同じ鴻巣の杜の現在地を卜し、山を削り、八十八段の石段を構築し、神池と石橋を設け、棟梁に名工水間相模、彫刻に 口与鹿の師、中川吉兵衛を得て文化十五年(1818)、現在の社殿、境内の結構がなった。
三年後には能舞台、七年後には本地堂が建立され、その後幕末に至る迄例祭は陣屋の差配により町方が出向斎行され、郡代、請史の参拝が恒例となった。
又、芝郡代による、おかめ、アオソウの面の寄贈、神楽奨励によって、おかめ踊や獅子による湯立神事も行われ、4月17日の例祭日には町方からも参拝客が繰り出し大賑わいを呈したという。
維新後は幕府の崩壊・神仏判然令施行等により、別当松泰寺も廃寺、本地堂には朝日稲荷宮、官公廟が祀られることになり、明治二年には、東照宮は町方より村方に移管明治四年には村社となり、暫く村人にも氏神として親しまれるようになったが、明治四十一年には地区内の山王・八幡・熊野三社が合祀され、大正十二年には郷社に昇格、昭和に入り戦後は銀幣社筆頭格として現在に至っている。
その後昭和四十九年には旧清見村森 白山神社が合祀された。
尚境内社として高山市始祖金森初代長近公を祀る金龍神社が祀られていて、市民の崇敬を集めている。
東照宮文化財等
1、東照宮本殿一棟、付唐門、透塀 県指定重要文化財
2、飛騨東照宮 おけめ舞 ひょっとこ舞の付面 県指定重 要無形民俗文化財
3、本地堂一棟 付 棟札一枚 高山市指定有形文化財
4、四神旗四本(黒漆塗棒、縮緬三葉葵紋染抜旗、彩色木彫 竿頭飾) 高山市指定有形文化財
5、幸田善太夫高成墓一基(第八代代官)松泰寺墓地 高山 市指定史跡
6、非常用乾飯蔵跡石碑 高山市教育委員会建立
7、小峯大羽句碑 (大羽 東京の人 飛騨に近代俳句を導 入した先達) 高山市文化協会建立
8、明治37・38年役記念碑 乃木希典書 松倉石石碑
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通称 飛騨山王宮 (ひださんのうぐう)
住所 岐阜県高山市城山町156番地
主祭神
大山咋神(おおやまつみのかみ)
由緒由来
遠く永治元年(1141)、時の飛騨守時輔朝臣が、ある日片野山中で狩りに出て、奇瑞のことがあったので、その城をかまえていた石光山(今の高山市片野地内)に近江の日吉大神を勧請して、城の鎮護としたのがはじまりである。
その後、四代目景家の時、養和元年(1181)正月、源義仲の部将手塚光盛に攻められ、利あらずして敗亡、社殿も兵火にかかって消失したが、幸いにして御霊体は災禍をまぬがれ無事奉安することができ、里人によって社殿は再興され、片野村の産土神として奉祀されていた。
幾多の年月を経て天正13年(1585)、金森長近父子が豊臣秀吉の命によって飛騨へ入国、諸将を平らげて国内を統一し、国守に封ぜられて、同14年、城を天神山(今の城山)に築いた。
金森氏の祖は近江国で、代々日枝大神の崇敬が厚かったことなどから、慶長10年(1605)、片野より現在の地へ奉遷して城の鎮護神とし、社地と社殿を寄進造営、社僧松樹院を置いて片野、高山南半分の産土神に定められた。
かくして金森氏歴代100余年間、城主の崇敬あつく度々の社殿の改築修造が行われてきた。
今に残る社殿の棟木、神輿等に見る国守の紋所梅鉢はじめ金森長近公愛用の陣羽織及び刀等にもそれを伺うことができる。
元禄5年(1692)、城主移封となり、徳川幕府の直轄となってからも、歴代の代官・郡代の尊崇あつく、度々社殿の修築、参詣があった。
明治以後は郷社を経て昭和に県社となり、一般に『山王さま』と親しまれ、氏子数2700戸はじめ高山市民の尊崇を集めている。
祭礼は春の高山祭り(はるのたかやままつり)で4月の14日と15日に行われる。
この参道を進んで行くと左側に朱色の鳥居があります。
立派な日枝神社の鳥居。
日枝神社の本殿。
日枝神社の大スギ。
日枝神社の大スギの説明看板。
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通称 八幡神社(はちまんじんじゃ)
住所 岐阜県高山市桜町178番地
主祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
摂末社祭神
熱田大神(あつたおおかみ)
香椎大神(かしいおおかみ)
由緒由来
創建は遠く仁徳天皇即位(377)の御代にさかのぼると伝えられる。
当時飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という蛮勇豪猛の凶賊がおり、天皇の命に叛き猛威を振るい人民を脅かしていた。
この両面宿儺討伐に、難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)が朝廷より征討将軍に任命された。
武振熊命は官軍を率いて飛騨国に入り、先帝(御父君)応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝祈願せられたのが桜山の神域であったといわれている。
その後、聖武天皇の御世と清和天皇の御世に諸国に八幡宮が祀られたとき、飛騨ではこの神域を八幡宮境内と定め御社殿は整えられたといわれる。
室町時代の大永年間、京都の石清水八幡宮を勧請し更に郷人の敬神思想は高められたが、その後戦乱の時代が続き一時荒廃していた。
元和9年(1623)高山の領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡宮旧跡の桜山老杉の傍らに応神天皇の御神体として奉安し社殿を再興、神領を寄進し、高山の安川以北を氏子と定め、神事を管理高山府の総鎮守府とした。
飛騨が天領となってからも、地域住民をはじめ代々の郡代の篤い崇敬を集めて興隆の一途を辿った。
明治4年(1871)郷社に指定、同8年に高山の大火にあい、惜しくも秋葉社を除いてほとんど類焼したが、同33年に御社殿を復興、昭和7年に県社に指定、同26年に式年大祭再興、昭和43年屋台会館完成、同51年に総檜造りの本殿並びに拝殿・神門・瑞垣の御造営と神域は見違えるようになり、別表神社に加列、同55年社務所参集殿を改築、同56年5月飛騨国中300余社の神社を招請して式年大祭を再興し今日に至る。
当桜山八幡宮は、氏子崇敬者の信仰にささえられ、当神社の例祭は「秋の高山祭」として全国からの参拝者で賑い、年間を通じて150万人の参拝者がある。
櫻山八幡宮の鳥居
桜山八幡宮の本殿
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通称 国都神社(くにつじんじゃ)
住所 岐阜県高山市本母町1番地
主祭神
国都神(くにつかみ)
白山神(しらやまのかみ)
由緒由来
創祀未詳なれども、文徳天皇仁寿元年正月二十六日正六位上に叙せられ清和天皇貞観十七年十二月五日飛騨国正六位上木母國津守従五位下。
陽成天皇元慶元年閏二月二十六日飛騨國正六位上木母守従五位下(二度同位は誤りあらんか)その後後宇多天王建治元年七月二十日に至る間八回の贈位あり。
本母国津神社の鳥居
本母国津神社の本殿
本母国津神社の本殿は新しく建てられた立派な本殿でした。
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岐阜県高山市堀端町90番地
飛騨護国神社の主祭神
護国の英霊(ごこくのえいれい)
堀の橋から見た飛騨護国神社。
この階段の上が護国神社。
護国神社の本殿。
飛騨護国神社の由緒由来
明治十二年四月二十一日創祀。明治十一年神宮教中教院は、飛騨神社所在地に神殿造建天照皇大神を齋祀すると同時に祖霊殿を併置して飛騨国内神道関係、公務員殉職者、文化功労者(西南役戦歿者、飛騨工匠を含む)の神霊を祭祀す。
明治十二年四月二十一日神殿落成遷座祭執行す。
これ飛騨神社の発祥なり。
明治四十二年六月十六日靖国神社御分霊を奉斎し、右祖霊殿祭祀神霊及び日清役日露役戦歿者の神霊を合祀して私祭飛騨招魂社を設立す。
右設立者永田吉ェ門外二百四十七名崇敬者戸数二万八十戸例祭毎年四月二十七日。
受持神官上杉齋次郎奉職。
大正四年三月十二日受持神官田嶋壮次郎奉職。昭和十四年四月一日飛騨招魂社を飛騨護国神社(指定外)と改称す。
社司森本榮樹奉職同年十一月四日本殿増築遷座祭を執行す。
爾来例祭毎年五月三日十一月五日春秋二回とす。
昭和二十年七月二十一日神社本庁に所属す
。昭和二十一年十月三十日飛騨護国神社を飛騨神社と改称する。
右神社境内地は高山市城山公園の一部をなし世に忠孝苑と称呼す。